作品について
1922(大正11)年発行の童話集「山の上の木と雲の話」に収録された作品。
その後の童話集にも度々収録される未明の名作の一つ。
北の海でいなくなった子どもを探す親海豹を中心に、風、月など幻想的な世界観と、
細かい風景描写が光る作品。
あらすじ
北の海に、一匹の親の海豹が、氷山のいただきにうずくまって、あたりをぼんやりと見まわしていた。
秋頃にどこかへ姿が見えなくなってしまった愛しい子どもを探して、そうやっているのだった。
海豹は、目の前を通り過ぎていく冷たい風に向かって話しかけた。
「私の可愛い子どもの姿を、見かけませんでしたか」
しかし、風は見かけなかったと言う。
そして、注意してみておこうと言い残すと、駆けていってしまった。
海豹は風の便りを幾日も待ち続けたが、便りは無かった。
そのうち、月が「さびしいか?」と海豹に声を掛けたりしたが、
海豹が寂しさを訴えると、月は黒い雲へ隠れてしまった。
幾日か経ち、月がまた「さびしいか?」と声を掛けてきた。
海豹は、子どもの行方が分からなくて寂しいと伝える。
すると月は、「おまえを楽しませるものを持ってこよう」といい、
雲の後ろに隠れていった。
月が南を眺めていた時に、牧人達が太鼓を鳴らして踊っていた。
その様子をみた月は、小さな太鼓を海豹に持っていってやろうと考え、
太鼓をそっと持って、北の空へ旅をした。
海豹に太鼓を渡すと、海豹は喜び、北の空には海豹が鳴らす太鼓の音が、
響いていたという。
小川未明(おがわ・みめい)
1882年4月7日-1961年5月11日
小説家・児童文学作家。本名は小川 健作(おがわ けんさく)。
「日本のアンデルセン」「日本児童文学の父」と呼ばれる。
娘の岡上鈴江も児童文学者。
新潟県高田(現上越市)に生まれる。
東京専門学校(早稲田大学の前身)専門部哲学科を経て大学部英文科を卒業。
坪内逍遙に師事し、島村抱月やラフカディオ・ハーン(小泉八雲)らにも影響を受けた。
在学中に処女作「漂浪児」を発表し、逍遥から「未明」の号を与えられ、
卒業直前に発表した「霰に霙」で小説家としての地位を築く。
1925年に早大童話会を立ち上げ、1926年以降は童話作家に専念する。
1953年、童話会の会員だった鳥越信と古田足日の二人を中心をした「少年文学宣言」
が発表され、未明は、古い児童文学として否定されるという、苦渋の晩年も送った。
代表作は、「金の輪」(労働文学)、「赤い蝋燭と人魚」(朝日新聞)
「月夜と眼鏡」(赤い鳥)、「野薔薇」(小さな草と太陽)など。
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