内容紹介
南北朝時代の琵琶法師・覚一(かくいち)が1371年に完成させたといわれる覚一本を、割愛することなく原文のまますべて収録しています。
かくて女院は、文治元年五月一日、御ぐしおろさせ給ひけり。御戒の師には、長楽寺の阿証房の上人印西とぞきこえし。御布施には先帝の御直衣なり。(灌頂巻・女院出家)
灌頂巻 収録内容
壇の浦合戦で生き残った建礼門院は出家して大原の寂光院で平家一門の菩提を弔う。文治二年(1186年)、後白河法皇はひそかに建礼門院を訪ねてゆく。
壇の浦で捕らえられた建礼門院は帰京し、出家する。大原の寂光院へと移り住んだ建礼門院は粗末な庵で仏道に専心し、平家一門の菩提を弔う。そこへ後白河法皇が訪ねてくると、建礼門院は自らの一生を六道輪廻にたとえて語るのだった。のちに建礼門院は、この地で極楽往生を遂げた。
01 女院出家(にょういんしゅっけ)
壇の浦で入水したが源氏に引き上げられた建礼門院(けんれいもんいん)は帰京し、出家した。平清盛(きよもり)の娘であり、安徳(あんとく)天皇の生母として仰がれたかつての暮らしぶりとかけ離れた侘び住まいの中で、建礼門院は先帝や平家一門の面影をしのび、嘆き悲しんだ。
02 大原入(おおはらいり)
建礼門院はさらに人目を憚り、大原の寂光院へ移った。お堂の傍らに庵室を結び、一間を御寝所に、一間を仏間に定め、朝夕の念仏を怠りなく月日を送る。庭を通る足音は人ではなく鹿であり、寂しさがいっそうまさる暮らしであった。
03 大原御幸(おおはらごこう)
後白河法皇はわずかの供を従えて、大原の寂光院へ御幸された。出迎えた老尼は後白河法皇の乳母の娘・阿波内侍(あわのないし)であった。後白河法皇は庵室を見回し、建礼門院の暮らしぶりを哀れに思う。やがて山から下りて来た建礼門院は後白河法皇の訪問に驚き、呆然と立ちすくむ。
04 六道之沙汰(ろくどうのさた)
建礼門院は後白河法皇と対面し、平家一門の後生安楽を祈っている日々であることを告げる。そして、栄華から滅亡に至るまでの自分の生涯を、六道にたとえて切々と語るのであった。
05 女院死去(にょういんしきょ)
日暮れとなり、後白河法皇は還御された。建礼門院は亡き人々の冥福を祈り続ける。平家一門の悲劇は、平清盛が思いのままに権力をふるった報いとされる。年月が過ぎ、建礼門院は寂光院で静かに往生を遂げた。
作者・成立
作者未詳。『徒然草』に、平家物語の作者は信濃前司行長(しなののぜんじゆきなが)という記述があるが、確証はなく異説も多い。
成立は十三世紀初めごろ。琵琶法師の平曲によって全国に広まったため、巻数や内容の差異があるさまざまな異本が伝わる。当初は三巻本であったが、十二巻本に増補され、さらに灌頂巻(かんじょうのまき)が加わった覚一本が現在ではよく知られている。覚一本は、琵琶の名手・覚一(かくいち)が1371年に完成させたものといわれる。
朗読:岡崎 弥保(おかざき・みほ)
俳優・語り手。
東京女子大学卒業、同大学院修了(日本古典文学専攻)。言葉の力に魅せられ、編集者を経て、俳優・語り手に。演劇・語りの舞台に数多く出演。2010年朗読コンクール優勝(NPO日本朗読文化協会主催)。俳句「藍生」(黒田杏子主宰)会員。『源氏物語』全五十四帖(与謝野晶子訳)の朗読CDをはじめ、「おくのほそ道」「にほんむかしばなし」「小泉八雲怪談集」「ひろしまのピカ」「夏の花」等、収録多数。
●公式サイト「言の葉」http://ohimikazako.wix.com/kotonoha/
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